2017年11月16日木曜日

アイカツ!あかりGeneration、紅林珠璃史観試論―紅林珠璃とは何なのか―

アイカツ!あかりGeneration、紅林珠璃史観試論

―紅林珠璃とは何なのか―



 本論稿は、「アイカツ!あかりGeneration」と呼ばれる、アイカツ!102話から178話を、紅林珠璃を中心に読み解くための何らかを見い出すための試論である。
 (「考察」ではあっても「評論」ではないが、コミケなどでのいわゆる「評論系」という括り方に合わせて、拙ブログではこうした記事も全て「評論」でタグ付けする)

目次
1.はじめに
2.あかりGenerationとはなんなのか
 2-1.あかりGenerationはつまらない?
 2-2.「人間の物語」としてのあかりGeneration
 2-3.憧れのはじまり――スケールダウンの正体
 2-4.「アイカツの天井」
 2-5.小括
3.紅林珠璃の物語――出落ちと呼ばないで
 3-1.これは私のストーリー――事後報告される紅林珠璃の「物語」
 3-2.三つのアイデンティティの統合
4.紅林珠璃の役割――「再演」を鍵に読み解く
 4-1.114話と115話――紅林珠璃=中山ユナ説
 4-2.では他のキャラクターの家族は?
 4-3.「再演」のための人員
5.まとめと今後の課題
 まとめ
 参考文献


1.はじめに


 アニメ「アイカツ!」は178話からなるストーリーであり、正確には、2016年4月から番組タイトルが「アイカツスターズ!」に変わり話数がリセットされるまで、一貫して「アイカツ!」というタイトルであった。「アイカツ!あかりGeneration」という呼び名は、一部市販用DVD/Blu-ray[1-1]の商品名が、102話収録分以降「アイカツ!あかりGeneration」(以下、適宜「あかりGeneration」「あかりジェネレーション」「あかジェネ」と呼称)となっている[1-2]ことに由来する。この他、2017年8月に発行されたムック本『アイカツ!あかりGenerationオフィシャルコンプリートブック』も同様の表記となっている。
 これらの用法ではあかジェネとは102話から178話を指すが、論者によっては大空あかり登場時を起点に75話から178話をあかジェネとして論ずる場合や、逆にアバンから星宮いちごが消えた126話から178話をあかジェネとして論ずる可能性もある。本論稿では原則として「あかりGeneration」を102話から178話を指す呼称として扱う[1-3]

 いずれにせよ、このように番組タイトルにも名を付けられている大空あかりがアイカツ!あかりGenerationの主人公であることは明白である。そして、アイカツ!1期2期においてOPソングを歌ったのが、星宮いちご、霧矢あおい、紫吹蘭(と、一部神崎美月)であったように、「あかりGeneration」のOPを歌うのは大空あかり、氷上スミレ、新条ひなきの三人である。
 また、1期2期の主人公・星宮いちごが三人でユニット「ソレイユ」を組んだのと同様に、あかりGenerationの主人公・大空あかりは三人でユニット「ルミナス」を結成する。この、あかり、スミレ、ひなきの三人が特に重要な人物であることについては贅言を要さない。
 しかしあかジェネにはもう一人、重要な人物が存在する。109話から登場し、あかりと同級生でありながら、あかりよりさらに遅くに編入してきた[1-4]、紅林珠璃である。
 1期2期においても、主人公と同学年の主要登場人物はいた。有栖川おとめと藤堂ユリカ、一ノ瀬かえで、付け加えるならば神谷しおん。さらに2期からはドリームアカデミーの四人も登場した。だが紅林珠璃は「女優」のアイドルでありながら、同じく女優業の神谷しおんほどには物語から疎外されず、しかしレギュラーメンバーでありながらも、ユリカやおとめが果たしたようなスターアニス入りやアイカツ8入りは逃している。
 決定的なことには、紅林珠璃はあかり自身を含めた同期生4人のうち、一人だけルミナスに入れていない。珠璃と、「仲の良い三人のうち一人だけアイカツ8に入れなかった新条ひなき」[1-5]は、二人のユニット「情熱★ハラペーニョ」を組んでいたのに、ルミナス結成時にはそれもさほど問題とされなかった。
 「仲の良い三人のうち一人だけ」という言葉に一人だけ含まれていない紅林珠璃……

 この独特の立ち位置の親愛なる同期生、紅林珠璃は、あかりGenerationにおいていかなる役割を果たしているのか。以下はこのテーマで考察していく。本論稿と、未だ書かれざる私の以後の論稿群の最終目的は、あかりGenerationを紅林珠璃に着目して読み解くある種の枠組み、言うなれば「紅林珠璃史観」を提唱することである。 
 なお、本論稿は原則としてアニメ版についてのみ論ずることとし、データカードダスアイカツ!での展開については射程に含めない。消極的理由としては、データカードダスに関するアイカツ史学[1-6]は発展途上であり、参照できる史料が少ないため。積極的な理由としては、本論稿ではあくまでアニメ版での全178話と映画3本[1-7]の体系を考察したいためである。同様に「アイカツ!フォトonステージ」(「フォトカツ」)も射程から外す。

[1-1]:レンタル用DVDなどはこの限りではなく、巻数なども通しで記述される。例えば、102話収録巻は「アイカツ!第35巻」というように。
[1-2]:Amazon「アイカツ! あかりGeneration Blu-ray BOX1」 http://amzn.asia/fQ21WE2
[1-3]:また、アイカツ!の「1期」は1話から50話を、「2期」は51話から101話を、「3期」は102話から152話を、「4期」は153話から178話を指すものとする。
[1-4]:参考までに、wikipediaによれば、アイカツ!109話のテレビ東京での放映は2014年11月20日である。
[1-5]:『アイカツ!あかりGenerationオフィシャルコンプリートブック』(という名の福祉)より
[1-6]:しゅら氏による「アイカツ史」などの試み
[1-7]:映画3本=「劇場版アイカツ!」「アイカツ!ミュージックアワード」「アイカツ!~狙われた魔法のアイカツ!カード~」

2.あかりGenerationとはなんなのか


 本論稿の最終目的があかりGenerationを読み解くための「紅林珠璃史観」の提唱である以上、そもそもあかりGenerationとはなんなのかを、先行研究を参照しながら確認する。


2-1.あかりGenerationはつまらない? 

 きな臭い話から始まるが、あかりGenerationについて批判的に論じた最も有名な論稿の一つがこれであろう。
 「アニメ「アイカツ!」の名を地に落としたあかりジェネレーションについて
 このブログ記事に限らず、「あかりGenerationは1期2期に比べてつまらなくなった」という言説は多い。その理由はいくつか挙げられていて、曰く「スケールダウンした」、「努力や挫折(≒勝負)が描かれていない」、「美少女動物園になっている」などなど。しかしここではそれらの言説が妥当であるかどうかはあまり問題ではない。「おもしろい」「つまらない」自体は主観的なものであり、作品を読解するときにあまり懐疑的にばかりなっても意味はないからである。内田義彦が『読書と社会科学』で書いたように、読解には作者を信じる気持ちと疑う気持ちの両方が必要だ。あるいは「チャリタブルに接する」態度[2-1]
 本論稿ではこうした批判的な指摘や言説も意識にとどめてはおくが、これらの言説はあくまで「紅林珠璃史観」のための手段として扱い、目的・結論とはしない。


2-2.「人間の物語」としてのあかりGeneration

 1期2期とあかりGenerationの構造について、甘粕試金氏が書いた論稿「重力のあるところで(『アイカツ!』あかりジェネレーション178話によせて)」は非常に示唆に富む。甘粕氏はいくつかの論稿を通して、1期2期を“神たる神崎美月と、半神半人のいちご”による“いちごの神殺しの物語”と定義し、あかりGenerationを”神話としての1期2期を「人間の物語」として受け継ぐもの”だと定義している。
 美月が神たる証左としては、彼女の食事の描写の少なさや、シリーズ構成・脚本の加藤陽一氏が「いちごにとっての最高の憧れだから「神」」と明言していることが挙げられる。いちごが半神半人なのは、レジェンドアイドル・マスカレードの血を引きながらも、それが彼女の成功の理由とはされない描写や、お弁当屋の娘で誰より大食い、しかし大空あかりの登場以後は「天才タイプ」として扱われる描写などからである。
 「私はこの一連の「物語」を「王権神授的」と形容したいと思います。」
 「神の位置から格下げされることにより人間の統治が始まるという「物語」」
 要約すれば、甘粕氏の見方は、1期2期が神話で、あかりGenerationは神話を人間の物語として「再演」するもの、ということになるだろう。甘粕氏はおそらく「再演」という言葉は使っていないが、本論稿ではこの「再演」という言葉であかりGenerationを再定義し、それを軸に論を進める。


2-3.憧れのはじまり~スケールダウンの正体~

 大空あかりは、177話でスターライトクイーンに輝いた。これと178話のマラソンをもって、大空あかりは星宮いちごに追いついたと認められる。しかし、本当にあかりはいちごに追いついたのだろうか?『劇場版アイカツ!』でいちごは「よじ登っておいで」と励まし、あかりが「絶対行きます!」と答えたが、あかりは美月といちごの立つトップに到達したのだろうか。おそらく、あかりはこの意味でのトップにはたどり着いていない。
 スターライトクイーンカップは、物語の途中から“中等部の生徒だけが参加するコンテスト”として設定された。神崎美月は結局スターライトクイーンであることには満足せず、さらにアイカツを盛り上げるためにスターライト学園の外に出た。おそらくどう読み解いても、美月の全盛期はスターライトクイーンカップ当時ではなく、それより後にある。また星宮いちごは50話でスターライトクイーンにこそなれなかったが、やはりそれ以後も成長を続け、ついには劇場版で美月を打倒した(=神殺しを果たした)。
 一方で51話時点でスターライトクイーンとなっていた有栖川おとめは、いちご・美月並みの活躍は描かれなかった。
 1期2期を見る限り、スターライトクイーンという肩書はさほど重要ではなさそうに思える。あるいはせいぜいが通過点といったところか。
 この点で、確かに1期2期からあかりGenerationはスケールダウンしている。余談だが、同じくサンライズ制作のアニメ『ガンダムビルドファイターズ』(以下『GBF』)は、主人公コンビが地区予選から全国大会を突破し世界大会優勝を果たして、更には世界を救うまでの物語だが、続編の『ガンダムビルドファイターズトライ』(以下、『GBFT』)は主人公トリオが全国大会優勝を果たしたところで終わっている。皮肉なことに『GBFT』においても「美少女動物園かよ」という批判がよく聞かれた。

 なぜこうした「スケールダウン」が起こったのかについて、筆者は以前、アイカツおじさんの先輩・めりんぎ氏と議論を交わしたことがある。めりんぎ氏は144話『ドッキリアイドル大作戦!』で視聴を断念した。筆者はめりんぎ氏と度々Skype限定アイカツおじさん無関係オーディオコメンタリーを実施していたので、彼ほどの情熱を持つアイカツおじさんが、なぜあかりGenerationの途中で脱落してしまったのか、彼の感じた「つまらなさ」「違和感」がいかなるものなのか理解をしたかった。それを問う筆者に対し、めりんぎ氏も言語化困難な感覚をまとめようと、議論をしてくれた。
 その中で我々は、ひとつの知見を得た。

 いちごとあかりは「憧れのはじまり」が違うのだ。
 星宮いちごのストーリーは、神崎美月のライブを見たことから始まった。 この時点で既に美月は「トップアイドル」であった。しかし、大空あかりのストーリーは、潜在的には12話『WE WISH YOU A MERRY CHRISTMAS』で、中山ユナのためにクリスマスツリーを伐採するいちごを見たところから始まっている。この時点のいちごは「友達のために動くアイドル」である(notトップアイドル)。
 こうして、必ずしもトップアイドルでもない「星宮いちご」という偶像への憧れが、大空あかりのアイカツの始まりであった。

 もちろん、本格的にあかりが「いちごの場所」を目指すようになったのは劇場版でいちごが「トップアイドル」となった時点であるから、少なくとも113話以降のあかりのアイカツは「トップアイドル」を目指しているはずだ、と読み解くことも可能ではあるが、あかりのストーリーはそれ以前から始まっているから、劇場版を境にハッキリと区切ることは難しいだろう。102話から「あかりGeneration」と名付けられていることはもちろんだが、78話で既にあかりはモノローグで「これは、私のストーリー」と語っている。「あかりのストーリー」は遅くとも78話から始まっていて、この時点のいちごは「トップアイドル」ではない。

 憧れのはじまりが終着点を規定する、と断言するつもりはない[2-2]が、あかりのストーリーのスケールダウンは憧れのはじまりによってもある程度規定されていたとは言えるのではないだろうか。

 
2-4.「アイカツの天井」
 
 ともあれ、甘粕氏が最終的に指摘するように、「人-神(=星宮いちご)から「バトン」を受け取った人間(=大空あかり)は、その「物語」の必然的帰結としてスターライトクイーンの座を襲名する運命にあった。(中略)では「スターライトクイーンカップ」とは、原則的に勝ちも負けも生じ得ない状況を設えたうえで大空あかりの戴冠をスムーズに実現させるための場、以外の何かを意味していただろうか?(中略)「クイーン」の座は、(神崎→星宮→からなる「物語」を担がされた大空以外に)目指す意味のあるものだったのだろうか?」というように、「スターライトクイーン」の意味自体も1期2期での(特に2期での)意味からは大きく変質させられ、「王権神授的物語の帰結としてあかりが戴冠されるための場」として作品内で再定義されたのである。
 1期2期および劇場版において、「トップアイドル」という高みは不確定であった。それは1期2期の時点でのトップアイドル・神崎美月が、常に「アイカツを盛り上げる」、「アイカツの未来」を考える人であったためである。「アイカツの天井」(=美月)[2-3]自体が上がっていくので、ほとんどの人はいつまでも天井に手が届くことはない。だがあかりGenerationにおいては、125話のあかりの決意以降、「アイカツの天井」自体が「スターライトクイーンになること」として固定された[2-4]

 アイカツ!178話と映画3本を、筆者なりに戯画的に要約すれば、1期2期は美月といちごによる神話、あかりGenerationはあかりら人間によるその「再演」(縮小再生産)である。
 神話的奇跡は我々の前に現前する時スケールダウンせざるを得ない。誰か、海の上を歩く人、串刺しにされて生き返った人などを見たことがあるだろうか?


2-5.小括

 もちろん、1期2期とあかりGenerationの構造は、完全な下位互換ではない。『GBF』では一人の選手がガンプラを操縦するのが基本だったところに、『GBFT』は三人チームを一般的な公式ルールとすることで、より多くの人間の群像劇を描こうと試みた。同様に、あかりGenerationもまた完全な「再演」だけにはとどまらない。本稿で詳細を述べることはできないが、あかりGenerationの「再演」からの逸脱・解放は、主として4期部分で多く起こっている。
 また、大空あかりの道のりは星宮いちごのそれの単純な反復でもない。2期終盤の時点で、あかりは「いちごちゃんになりたい」という願望を諌められ、「自分だけの輝き」「オリジナルスター☆彡」を見い出すことを勧められた。ここにあらわれているように、大空あかりは星宮いちごの道程を完全になぞることは、少なくともセリフの上では避けられている。そして「自分だけの輝き」の証としてあかりが見出したのが(星宮いちごは果たせなかった)「スターライトクイーンになること」であった。

 だが、あかジェネにおいてあかりはツリーを伐採し、ソレイユを追ってルミナスを結成し(言うまでもなく、両者とも3人ユニットである)、「戴冠式」においてもなお星宮いちごによる承認を必要とした。これらのことからも、あかりが美月―いちごを貫くSHINING LINE*の線上にあることは否定されない。

 あかりGenerationのこの「スケールダウン」の是非は論じても仕方がない。そうなったからそうなったのだ。我々はそうなったあかりGenerationを読み解くための枠組みを考えよう。以後は、あかりGenerationが「1期2期という神話の人間による再演」であることと、そこにおける紅林珠璃の役割を同時並行で挙げてゆく。


[2-1]:「スペクトラム・シャンディ」後掲書、p.22の司会の発言より
[2-2]:なにより、いちごはどの時点においてもスターライトクイーンにはなっていないのだから、「スターライトクイーンのいちごに憧れる」という構図は存在し得ない。それでもあかりがスターライトクイーンを目指している以上、ここでの読解の仕方はおそらく十全ではない。
[2-3]:イマワノキワ「アイカツ!:第150話『星の絆』感想
[2-4]:この天井を固定したのは誰か。甘粕氏の論稿を踏まえれば、これはこの時点で美月から神権を「奪い」、「治水者」となっているいちごだろう。あかりの「スターライトクイーンになります!」という決意表明をいちごが承認した時点で、あかりの、あるいはあかりたちの(本当に「世代」という意味で、あかりジェネレーションのアイドルたちの)、「アイカツの天井」はスターライトクイーンカップに引き下げられ固定されたのだ。


3.紅林珠璃の物語――出落ちと呼ばないで


 ようやく紅林珠璃の話ができる。俺は紅林珠璃の話をしているんだ
 この第3節および次の第4節は、あかりGenerationが1期2期の再演であるという作業仮説を置いた場合、紅林珠璃の役割というものをどのように考えることができるか、ということについての試論です。
 (上の二つの節から少し時間を空けて書いているので、文体がですます調になります。大目に見てください。大目に見ろ。)


3-1.これは私のストーリー ~事後報告される紅林珠璃の「物語」~

  紅林珠璃は、いったい何故スターライト学園に入学し、アイドルになろうとしたのでしょうか?
 その理由は109話で早速提示されますね。幼少期に「親の七光り」を自覚した彼女は、自分の力で一人前の女優になるために、「紅林可憐の娘」として仕事をすることを辞めて、「イチから女優の勉強をし」、13才になってようやく、女優業に戻る決心をしたのでした。[3-1][3-2]
 そしてその彼女なりの課題は109話において早くも(概ね)解消されました。この流れを再確認しましょう。紅林珠璃のアイデンティティは、おそらく大きく三つの柱に分けられます。
 第一に、彼女言うところの「七光り」、つまり「紅林可憐の娘」であること。
 第二に、「私を見て」と言うときの「紅林珠璃自身」。
 第三に、「女優として演じる役」です。
 第三のアイデンティティが、この109話の場合もっとも重要で、同時にちょっと説明が必要かもしれません。「役がアイデンティティになり得るので?」という疑問もあるかもしれませんから。

 109話は紅林珠璃回、つまり紅林珠璃が成長する回です。彼女の成長とは、外形的に見れば、“自分の力で仕事を得られた”ことです。そのための努力として、回想の形で語られる、長い勉強の期間がありました。
 しかし、アイカツ!178話全体を通して共通の法則として、「努力」が「結果」に結びつくためには、何か「気づき」[3-3]、すなわち内面的な成長が必要だということがあります。
 俗なおしゃべりの中では、『アイカツ!』と言えば崖登りやランニングや腹筋など、とかく、いわゆるスポ根的な「特訓」部分が注目されがちです。確かに、『アイカツ!』の公式サイトの「アイカツ!とは」にも「スポ根サクセスストーリー!」とあるように、そうした側面も強く存在します。
 ですが思い返していただきたいのは、その努力が結実するまでには何らかの「気づき」が常にあったということです。例えば6話『サインに夢中!』は、サインを早くきれいに書くための特訓だけではダメで、「サインは顔をあげて」ということに気づく必要がありました。あるいは1期の前半で度々描かれた、高いハードルを課せられたアイドルたちが厳しい特訓を行いながら、いつしか笑顔を忘れてしまい、そこから「笑顔」の大切さに気づいてブレイクスルーへと至る、という筋も同様です。

 「むしろここでは、スポ根的な特訓(サーフロックっぽいBGMが流れる)の描写は反語的な、結果に通じない努力として用意されることが多いのです。[3-4]

 努力(特訓)→気づき・ブレイクスルー→結果、という流れですね。
 
 そう考えたとき、では109話で珠璃の「努力」が「結果」に結びつくための「気づき」とは何だったか。それは、「女優」という芸能についての『アイカツ!』なりの一つの解答(あるいは定義)でした。
 「七光り」についての胸中を語る珠璃に、あかりが「私、珠璃ちゃんとお芝居がしたい。珠璃ちゃんのアイカツ先生とお芝居がしたいんだ!」「珠璃ちゃん、一緒にお芝居しよう!」と声をかけ、珠璃の手を取り振り向かせます。
 そして珠璃はしみじみと、「私はアイカツ先生。紅林可憐の娘でもなく、紅林珠璃でもなく、アイカツ先生なんだ…」と漏らしたのでした。

 珠璃とあかりの会話は、字面だけ見るとあまり噛み合っていません。では文脈や行間を読むとどうか?
 思い出してほしいのは、21話『オシャレ怪盗☆スワロウテイル』です。この時、「演技の心得」についてきたキャプションは「演技とは、誰かの人生をお預かりすること」でした。
 この109話において預かるべき人生とは、「アイカツ先生」の人生です。オーディションに合格し役を得るには、受験者はアイカツ先生になりきらねばなりません。21話でいちごとおとめがスワロウテイルになりきったくらいに。

 しかし、珠璃がアイカツ先生になりきるのを阻む要因もまた、珠璃自身の中にありましたね。それは「(「紅林可憐の娘」でない)紅林珠璃」として周りから見て欲しいという思いです。
 ユリカがユリカらしさを貫いた反面スワロウテイルになりきれなかったように、「紅林珠璃」という我が強すぎるとアイカツ先生の「人生をお預かり」できない、というわけですね。そしてあかりが先の発言でその我をうまく抑えたおかげで、紅林珠璃は先に挙げた3つのアイデンティティをうまく統合することができました。紅林珠璃のストーリーにおいて、彼女の一番の困難は、この「アイデンティティの統合」でした。


3-2.三つのアイデンティティの統合

 続く110話も同様の方法で読解してみることができます。
 110話「情熱のサングリアロッサ」では、『アイカツ先生』劇中のアイカツ先生と情熱を失った寒杉校長(?)の間の問題と、現実の紅林珠璃と「燃え尽きてしまった」エンシエロ篤の間の問題がパラレル(相似形)になっています[3-5]
 当初は、アイカツ先生を演じるための自分の(冷えてしまった)情熱を取り戻すために、エンシエロのドレスを得ようとする珠璃ですが、彼の元を訪れてみると、エンシエロは冷めてしまっていました。そんな彼に「もう一度ドレスと向き合う情熱を取り戻」させるために、珠璃たちは奮闘するのですが、スペイン料理でも闘牛士の熱い舞でもバラの花束でも、エンシエロを奮起させることはできません[3-6]

 それでも最終的に、珠璃はエンシエロの情熱を再び燃え上がらせるわけですが、これはなぜ可能になったのでしょうか。
 夕暮れの埠頭で、「やっぱり私には、心を凍らせてしまった人を温めることなんてできないのかな」と俯く珠璃は、しかし突然まなじりを決して、フラメンコを踊ります。そしてエンシエロに対し「あなたの炎はまだ消えていない。なぜなら私は、アンダルシアの熱い風があなたから吹き付けるのを確かに感じたのだから」という言葉をぶつけ、彼の情熱を引き出すことができたわけです。
 ここでの説得の論理は明確です。エンシエロの情熱はまだ燃え尽きていない、彼自身のうちからアンダルシアの熱い風が吹き付けてくる。アンダルシアに似た風が吹く街に留まっていることもその証左だ、と。
 突然ですが、97話「秘密の手紙と見えない星」を思い出してみましょう。自分の成長の“停滞”に悩むあかりに対して、いちごは「輝いていても、それが自分じゃ分からなくなっちゃうことがあるんだよ」と説得します。自分で分からなくてもちゃんと輝いてるから諦めるな、という説得の論理。110話で用いられている論理は、これと類似のものですし、(ここで例示をするのは煩雑になるので割愛しますが、)「内なる輝きの発見/再発見」(輝き)と、「その発見/再発見の手助けをする人」(輝きを見出す人)という論理は『アイカツ!』全体を通しても頻繁に出てきます。
 

 論理はおなじみ。しかし110話の特異性は、その「“再発見”を手助けする」側の人である珠璃自身が、情熱=輝きを失っていたはずであることです。
 いつも熱い珠璃が「なんだか寒い」ということは、既にあかりとスミレの口から語られていますし、エンシエロに対しても同様の感想を持っています。落ち込んでいた珠璃は何故フラメンコを踊る気になったのでしょうか[3-7]?冷えていたはずの珠璃がエンシエロに分けるための情熱を、どこから引き出してきたのでしょうか?
 熱力学の話をしたいわけではありませんが、冷めた者同士で熱を分け合うことはできませんから、熱はどこからか持ってこなければならない(もし珠璃自身がそれを己のうちから無理なく生み出せるのならば、そもそも自分の演技に対する情熱に迷いを抱いていません)。つまり“熱源”の所在が問題なのです。

 これは少々無理筋な解釈かもしれませんが、珠璃は「アイカツ先生」というアイデンティティから“熱”を引き出してきたと私は考えています。

 この根拠を説明するには、少々の後ずさりが必要です。
 前項で、109話で「紅林可憐の娘」「紅林珠璃自身」「(アイカツ先生という)演じるべき役」の三つのアイデンティティを統合した、と言いましたが、この「統合」は必ずしも「一つになった」という意味ではありません。神学上の三位一体説を聞きかじったことのある方なら分かると思いますが、父・キリスト・精霊がそれぞれありながら、同時に一体の神として存在するわけですね。珠璃のアイデンティティもそんな感じで、三つの柱それぞれの間を揺れ動き続けます。私が「統合」と言ったのは、この三柱を珠璃自身がきちんと認識して受け入れた、くらいの意味です。
 そして109話で珠璃が掴んだアイカツ先生という役は、ジョニー先生からの説明を聞く限り、別にフラメンコを踊ったり三段ステップ[3-8]を踏む先生ではなく、単に情熱あふれる先生という感じです。事前練習では他に三段ステップを踏んでいる生徒が見当たりませんし、オーディションの中でもそういった要素はありません[3-9]。アイカツ先生の情熱を表現するための手法として、珠璃がそれまで身につけてきたフラメンコ要素を役・ドラマに“輸入”したと考えられます。
 そして110話Aパート、スミレと珠璃の練習シーンで珠璃は、いつも通りの三段ステップを踏んでいますが、珠璃はこれでは納得出来ないといいます。ただステップを踏んでも、それは「紅林珠璃」であって、必要なアイカツ先生像にはならないのでしょう。
 さらに、珠璃はパパの助言も受け、ママが苦悩した経験から、Sangria Rosaのプレミアムレアドレスを得ようと思い立ちました。ここでは、ママ=可憐さんは109話に引き続き「紅林珠璃さん」と呼びかけてくれていますが、それでもやはり、“ママの経験”を聞こうとするのは、「紅林可憐の娘」であることを前提としていますね。そして結果としてこの試みは順当には行かないことを我々は既に知っています。

 「紅林珠璃自身」も「紅林可憐の娘」も、どちらのアイデンティティも、悩みを抱え、冷めてしまっています。だからアイカツ先生の演技もうまくいかず、エンシエロの情熱を引き出すこともできません。

 しかし、珠璃にはもう一つアイデンティティがあります。それが「アイカツ先生」です。110話で垣間見える、実際に放送されているドラマ『アイカツ先生』のアイカツ先生は、(現実の珠璃とは違って[3-10]、)一度として弱音を吐いていません。「アイカツ先生」は冷めていないわけです。

 フラメンコを踊る前の珠璃は、この「アイカツ先生」というアイデンティティから“熱”を引き出して、エンシエロに見せていたのではないか。これが私の解釈です。
 踊りだす前の「やっぱり私には、心を凍らせてしまった人を温めることなんてできないのかな」という独白で「やっぱり」が意味しているのは、アイカツ先生の役作りの上での悩みでしょう。ここで珠璃は自分が演じるべきアイカツ先生のことを思い出したはずです。アイカツ先生の役作りに、どれほど珠璃が悩もうと冷めようと、アイカツ先生はただ寒杉校長と対峙するだけです。寒杉校長の情熱を引き出さねばならないから、そうするのです。アイカツ先生がそうしなければならないからそうするのならば、ただ行為をもって示すしかないのならば、女優たる紅林珠璃は、ただその「アイカツ先生」というアイデンティティをも演じきるほかないのです。
(12月19日追記:このことを端的に示唆している(とこじつけられる)のは、エンシエロを再燃させたのが、料理や闘牛のお芝居や花を贈ることではなく、言葉をぶつけることであった点です。アイカツ先生は寒杉校長に料理や闘牛や花なんか贈らず、ただ言葉をぶつけますから。そしてもちろん、実生活で、言葉をぶつけるだけでも人は励ませるんだと学んだ珠璃は、言葉・セリフの力を信じて演じられることでしょう。これが、堅実な意味で、珠璃が自分の演技に納得できたことの理由付けになります。)

 しかし、だからこそ珠璃が110話で踊ってみせた「熱いフラメンコ」は、珠璃の個性である「フラメンコ」と、「アイカツ先生」からいわば前借り[3-11]した“熱”の合作です。エンシエロの前に立っていたのは、半ば珠璃であり、半ばアイカツ先生であったと言う方が、私の解釈に近い表現でしょうか。
 これが功を奏し、エンシエロのうちに残っていた情熱を再び燃え上がらせることができました。結果、エンシエロは再起し、珠璃の悩みも解消されました。
 
 というわけで、110話もまた、珠璃の「三つのアイデンティティの統合」という側面から読むことができる、ということを確認しました。

(2017年11月18日追記:ところで、珠璃はエンシエロのうちにいかなる“熱”を感じ取ったのでしょうか。プレミアムドレスを作るような気分になれず、スミレが「寒い」と評したエンシエロのうちに十分な“熱”がないのは明らかです。ではその燃えさしのようなもの、くすぶる想いをどこから読み取ったのか。
 珠璃はあかりたちに「彼の魂はまだ冷え切ってない。そう感じるの」、「それに彼はまだ、アンダルシアの風が吹くこの街に住んでる」と語りました。また、バラの花束を渡されたエンシエロは「でも、ごめん……僕のロッサは……」と呟いている。
 この辺から考えると、珠璃が感じ取った“熱”の正体は、私には、エンシエロを「この街」に引き止めていた未練、あるいは期待のようなものだったのではないかと思われます。本当に燃え尽きてしまったのなら、「この街」にいる必要はないわけです。エンシエロは、自分では燃え尽きたと言いながら、心のどこかで、「この街」の熱い風が再び自分を燃え上がらせてくれることを期待していたのではないでしょうか。そこに訪れたのが、「アイカツのアツい風」紅林珠璃だったのですから、これはもう運命的でしょう。そして珠璃は彼のロッサ=ミューズとなったわけです。この辺のミューズ論は下記注3-5の鶴論稿に詳しいので、重ねて読んでみてください)

[3-1]:今更ですが、女優になるためにアイドル学校に入学、というのはすごい設定ですね。『アイカツ!』において「アイドル」という職業は、ほとんど「芸能」という分野を包括する勢いです。
[3-2]:この幼少期の珠璃の葛藤は回想の形で語られました。甘粕氏が言うところの「事後報告」の構造です。(リンクは後掲)
[3-3]:これも甘粕氏の言葉です。
[3-4]:We sell HELL and suffer well「アイカツ!シーズン2を追想する & 劇場版アイカツ!を妄想する
[3-5]:この珠璃とエンシエロの間の相互作用については、既に優れた論稿があるので、そちらもご参照ください。(→「君は光るダイヤモンド:【アイカツ!110話】童話シンデレラから考えるSangriaRosaミューズ概念【悠久のシンデレラ】」)
[3-6]:冷静に考えて女子中学生が4人がかりでここまでのことしてるのに奮起しないこの胸毛モジャモジャオジサンはらいちや太田くん並みに叩かれてしかるべきではないでしょうか。
[3-7]:だって、落ち込んでるときなんて、飯食うのも風呂入るのも面倒じゃないですか。そんなときに、どうしてフラメンコなんて踊れますか?
[3-8]:珠璃の三段ステップのことを、私はTwitterではずっと「3カメ話法」と呼んでいたので、以後ブログでもそう記述することもあるかもしれません。
[3-9]:サッカーでシュートを決めるシーンは3カットの強調なので、ここは要議論ですね。
[3-10]:また、画面の中の「アイカツ先生」は、キメポーズこそ見せるものの、三段ステップではないことも頭の片隅に留めておきましょうか。本論稿では使い道は思いついてませんが、何か使えるかもしれません。
[3-11]:前借りだと考えなければ、論理的に、珠璃にはもうSangria Rosaのプレミアムレアドレスが必要がないということになってしまいます。

4.紅林珠璃の役割


 3節は少々冗長になってしまいました。そろそろ本題に入りましょう。
 109話と110話で、登場早々、ストーリーの「事後報告」と成長を済ませ、ドレスも手に入れた紅林珠璃は、その後あまり大きな成長が描かれることは無いように思われます。
 なのに、紅林珠璃というキャラクターがあかりGenerationに配置されているのは何故なのか。本節はそこを「再演」という観点から読み解くために、114話と115話を取り上げます。


4-1.114話と115話――紅林珠璃=中山ユナ説

 114話「ハッピーツリークリスマス☆」はクリスマス回にして、12話以来のツリー伐採回でもあります。
 ここで伐採に出向いたのはあかり、スミレ、ひなきの三人だけで、珠璃は仕事のために別行動でした。思い出してほしいのは、12話では有栖川おとめもちゃんと伐採に出向いて、その後のクリスマスステージにも立ったことです。珠璃……

 しかし、この114話で12話の「再演」をするために、紅林珠璃は誰よりも大きな役割を果たしています。
 みなさんご承知の通り、このとき、あかりにツリー伐採という目的を与えたのは、珠璃でした。珠璃がスターライトのクリスマスパーティに憧れていたこと、さらに、12話での星宮いちごの奮闘をちゃんと見ていた上に「素敵だなあって感動した」ことも語られます。ここで、珠璃が案外あかりに似たところがあると示されています。

珠璃「やっぱりスターライトのクリスマスパーティは、あのツリーあってこそ!」
あかり「うん!」
珠璃「悔しい、本当に悔しいよ!番宣がなければ、私も一緒に木を切りに行くのに!」
あかり「うん……ん?」
 (中略)
珠璃「おっきなツリー、楽しみにしてるよ!チャオ!」

 この珠璃の「無茶振り」があればこそ、あかりはツリー伐採を決意できたのでした。つまり、珠璃が114話に登場しなければあかりはツリーを伐採するきっかけがありませんでした。
 なぜなら、12話においていちごがツリーを切ろうとしたのは、寂しがっている友達・中山ユナのためでしたが、あかりたちの世代のクリスマスパーティには、そういう意味で悩みを抱えている生徒はいないからです。
 ここでは一応、珠璃が無茶振りをすることで、ツリーを切りに行くための動機づけになっています。そして、「ツリーが大きすぎてロケバスでは運べない!」という井津藻見輝の役立たずっぷりは12話のままで、そこに救いの手を差し伸べる植木屋さんの役どころは、珠璃のママによって担われます。
 ここで114話について覚えておいて欲しいことは、ツリー伐採の動機づけという観点から言えば「中山ユナ=紅林珠璃」であることです。
 ですが、珠璃の動機づけがあってツリーを切っても、そこには「理由」(励まされるべき悩み)[4-1]がないので、これだけでは、実は「再演」も空虚になってしまいますが、それを解決するのが115話です。
 登場時間は雲泥の差ですが、「再演」という観点から見ると、114話と115話はともに紅林珠璃回として読解することができます。

 115話「ほっこり☆和正月」で初手濃厚なあか珠璃を叩き込まれた我々は、この先もあか珠璃が続くのかと期待をしていました。しかし、まあ結果としてそういうことはありませんでした。あかりはskips♪ではまどかと、Luminasではひなき、スミレとユニットを組みました。一方の珠璃は、情熱★ハラペーニョでひなきと、バニラチリペッパーでは凛、まどかとユニットを組みました。あかりと珠璃のユニットは成立しませんでした。
 ならばなぜ、他のキャラクターを差し置いて、115話であかりの実家に招かれたのが紅林珠璃だったのでしょうか。

 それは、115話が114話に引き続き、12話の「再演」のための回だからです。

 中山ユナは、いつもは両親と海外で過ごしていたクリスマスを一人で過ごすことを寂しがっていましたが、115話の珠璃は、いつもは両親と海外で過ごしたお正月を一人で過ごすことになってしまった。珠璃はユナほど露骨に寂しがってはいませんが、構図としては「お正月の珠璃=クリスマスのユナ」です。

  さらに、114話のツリー伐採には、「動機」はあっても「理由」はなかった。珠璃はユナのように悩んではいません。ですが、お正月の珠璃には励まされるべき悩みがあり、あかりはそれを実家に招くという形で解決しようとしているのです。

 そして実家に招かれた珠璃は、あかりとあかりママ・あかりパパのやり取りを見て、あかりへの理解を深めたり、また珠璃からのあかり評が視聴者に提示されるなど、いろいろ大事なシーンがあるのですが、ここで着目すべきは一番最後、ステージを終えた珠璃が楽屋から廊下で会話する大空家を見ての独白です。

 「ふふっ、どこにいてもやっぱり仲良し家族だなあ。そういえば、うちのパパとママも、いつも私のステージのあと、あそこが、ここがって、熱く感想を伝えてくれるっけ。
 パパ、ママ……いつもありがとう」[4-2]
 そして珠璃が振り返った楽屋のテーブル上には、両親から届いたと思しき、花束と年賀状、ミニ門松、写真、テディベア。
 これもまた、12話ラストで両親と再開した中山ユナと相似形です。さすがに、珠璃のもとに両親が駆けつけることはありませんが。

 ユナを励ますためにツリーを切ったいちご。
 その「再演」のためには、ツリー伐採だけではまだ半分でした。115話であかりが珠璃を励ますために実家に招くことで、ようやく外形的なツリー伐採と、「友達を励ますため」という内面的な「理由」の両方が充足され、「再演」が完成するのです。


4-2.では他のキャラクターの家族は?

 114話と115話がセットで12話の「再演」になっている、と読むので、115話の中心人物が紅林珠璃であることに無理はありません(114話の中心人物は紅林珠璃ですからね。間違いない)が、一応、他のキャラについても考えてみましょう。

 スミレはそもそも、家族についての描写が非常に弱いキャラクターです。
 ひなきは芸歴が長く、親子仲は良好そうですが、イベントに家族が揃わないという経験は少なくなさそうです。[4-3]

 ですが、珠璃は家族の描写が濃いキャラクターです。話を先取りするなら、実際に、この四人どころか、あかりGenerationの誰よりも家族の登場が多かったですね。まどかのおばあちゃんである天羽あすかの出番は確かに多いですが、話への介入の具合は、珠璃ママ・珠璃パパとは異なります。

 それに、「再演」という観点ではなく、紅林珠璃の「三つのアイデンティティの統合」という観点から読解するならば、115話は「紅林可憐の娘」というアイデンティティの話として読むことができます。
 109話、110話では、可憐と珠璃は、意識的に親子という上下関係を後景に退け、「同じ女優」としての水平的な関係を強調しようとしてきました。しかし115話で、大空家の両親にあかりの頑張り屋の秘密を見た珠璃は、あかりを形作った両親と同様に、珠璃自身を形作った両親という上下の関係も好意的に受け入れることができました。
 「紅林可憐の娘」である自分もちゃんと受け入れた。この点で115話は紅林珠璃の「三つのアイデンティティの統合」によって成長する回です。この回の成長は、『アイカツ!』における成長描写の基本である、「ステージでの成功」や「プレミアムレアドレスの獲得」と結び付けられるようなドラマティックな描かれ方ではありませんが、やはり紅林珠璃の内面を読み解く上では大切な回です。

 逆に、スミレとひなきにはこうした課題(彼女たち自身の内での家族関係の緊張)がそもそも存在しませんから、こうした話にはなりません。


4-3.「再演」のための人員

 個人的な成長が描かれた109話、110話に比べれば活躍っぷりがトーンダウンした紅林珠璃[4-4]は、しかし114話と115話において、あかりがいちごの「再演」を遂行するための欠かせない役割を果たしていました。
 そして、ここでの紅林珠璃は中山ユナなので、いちユナがカップリングとして成立しないように、あか珠璃もこれだけではカップリングとして成立しないのかもしれません。
 紅林珠璃は、こういった、劇中の登場人物でありながら、若干メタ的な役割を担うキャラクターとして配置されているのではないでしょうか?

[4-1]:ここでは「動機」と「理由」をここだけで通用する仕方で使い分けています。「動機」を外形的なものとして扱い、「理由」を「励まさねばならない悩み」として用いることを、ご承知おきください。
[4-2]:ここの紅林珠璃の笑い方とても色っぽくて良いですね。
[4-3]:そう考えると、13年間そんな寂しさを味わっていたひなきと、仕事復帰して久々にそんな感覚を味わった珠璃のひな珠璃はイケそうですね。誰か書いてください。
[4-4]:109話初登場の紅林珠璃が、112話直後の時系列である『劇場版アイカツ!』に一人だけ出演できず、スクリーンデビューを『ミュージックアワード』まで待たねばならなかった。そういうこと、忘れちゃダメだよ……

5.まとめと今後の課題


 すっかり長くなってしまいました。いい加減まとめに入りましょう。

 本稿で述べたかったのは、紅林珠璃の活躍の場は劇中や劇中劇でありながら、同時に半メタ的な役割をも担っている、ということを語るための諸々の前提です。

 その「半メタ的な役割」の代表的なものは「再演」ですが、おそらくあかりGeneration全体を見渡せば、役割はそれだけには留まらないと私は考えています。
 ですが、この「試論」で扱えたのは、あかりGeneration全77話のうち、たったの4話に過ぎません。115話以前は片付いたと考えても、63話も残っています。今後の「紅林珠璃史観」確立のための論稿では、まず単純に残りの話をどんどん分析していく必要があります。「半メタ的な役割」というものについて述べるのもその作業の中でやっていくということで、今後の課題とします。

 「紅林珠璃史観」は、単にあかりGenerationの中の紅林珠璃に着目することを最終目的とするものではありません。紅林珠璃が果たした役割に注目しながら、あかりGenerationという物語自体の枠組みや体系、主題、あるいは細部の調和を再確認することも必要です。
 紅林珠璃という「要素」の分析を通して、同時にあかりGenerationという「構造」を分析するための枠組み。それが「紅林珠璃史観」[5-1]の目指す姿です。

 一方で、この「要素」への下降と、「構造」への上昇という分析は、分析自体のトートロジーに陥る危険性も孕んでいるでしょう。
 本稿で取り上げた話でも、114話・115話の分析は、あかジェネが1期2期の「再演」であるという構造を前提視しながら、紅林珠璃=中山ユナ役割という要素に下降していますし、逆にそうした要素から構造に上昇することで、あかジェネを「再演」として結論づけています[5-2]
 この同義反復が、「紅林珠璃史観」の精緻さを担保する上でどの程度致命的なものなのか、あるいはそうでもないのか、私にはよく分かっていません。皆様のご指導ご鞭撻をお待ちしております。

 本論稿は、サークル「スペクトラム・シャンディ」発行の同人誌『『アイカツ!』には何が描かれているのか?』の記述に多くを依っています。特に4節で行った114話・115話についての分析は、p49の末吉氏による分析がなければありえませんでした。そもそも、これほど真剣に『アイカツ!』を読解しようとするモチベーション自体、本誌がなければ存在し得なかったでしょう。
 また、110話についての読解は、鶴氏がTwitterで呟いていた紅林珠璃論稿の構想から着想を得ました。
 みなさまに一方的にお礼を言わせていただきます。ありがとうございました。

 思えば、初めての本格的な『アイカツ!』読解記事ということで、私の『アイカツ!』読解の前提も記述したために、随分と長くなってしまいました。少し肩に力を入れすぎたかもしれませんね。
 次回以降はもう少しちゃんと、まとまりのある記事にしていきたいと思います。

 ともあれ、私は私なりの『アイカツ!』解釈をし*、こうして投稿することで「解釈のアリーナ」[5-3]に投げ込みたいと思います。今はただ、この論稿が「解釈のアリーナ」で、少しでも多くの闘士たちに読まれることを願うばかりです。
 せっかく書いたからには読まれてほしい!
 しかしまあ、紫吹蘭的に言えば、ランウェイが自分のための滑走路でないように、「解釈のアリーナ」もまた自分のためではなく、みんなで『アイカツ!』をより深く楽しむための場だと言えそうですから、我だけを通しても仕方ないのですが。でも読まれたいよなあ!よろしくな!


 
[5-1]:単に紅林珠璃の歩みを確認するだけでは、それは「紅林珠璃史」になってしまうのではないでしょうか。
[5-2]:本論稿で私が述べているのは、「あかりGenerationは1期2期の再演であり、その役割を果たしているのが紅林珠璃である」ということと、「紅林珠璃のかくかくの行為は、『再演』のためのものである」ということです。しかし、本稿で取り扱うべき「紅林珠璃のかくかくの行為」というものの選定自体が、「再演」という構造があるという前提(あるいは偏見)によってなされている以上、選定された行為が「再演」的な役割を持っているというのは、ある意味で当然のことで、トートロジー的詭弁にすぎないのかもしれません。
[5-3]:『アイカツ!』を読解し、それを提示する営みを指す、視線と沈黙氏の言葉。


まとめ

・紅林珠璃とは、徹頭徹尾「演技する人」である。
・そのために紅林珠璃は、複数のアイデンティティを持つ。
・「演技する人」である紅林珠璃は、あかりGeneration全体を、1期2期の再演として微調整する役割を果たせる。
・それだけでなく、紅林珠璃はあかりGenerationにおいて「半メタ的な役割」を多く果たすキャラクターであることを示すのが、今後の課題である。
(・「三つのアイデンティティの統合」という言葉は、「統合」よりも「調和」くらいの方が適しているかも?)



その他参考文献

・wikipedia「アイカツ!(アニメ)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%84!_(%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1)
・ピクシブ百科事典「アイカツ8」
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%848
・内田義彦『読書と社会科学』
・イマワノキワ「アイカツ!:第150話『星の絆』感想
・イマワノキワ「アイカツ!:第151話『ステージの光』感想
・短文以上長文未満の妄言「アイカツ!3期の考察のようなもの 大空あかりを追いかけて
・oshogatsuの日記「星宮さんと大空さんのこと
・すのふら「あかりジェネレーションはどんな物語だったのか
末吉氏
しゅら氏
視線と沈黙氏(Twitterアカウントが休眠期or鍵なことがあります)
鶴氏
ホンマチ、氏

及び、「アイカツ!紅林珠璃論稿のための覚え書き~紅林珠璃 考察まとめ~」に挙げているリンク先すべて。


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