2015年7月18日土曜日

映画『シン・シティ』"The Hard Goodbye"感想

 「この街では愛さえも闘いだ」

(日本での公開時のコピー)

 最近、『シン・シティ』(2005)のDVDを買った。

 本作の見どころは何と言っても、原作漫画がそのまま動き出したような鮮烈な映像で描かれる、三つの激しい愛。

 特に自分が気に入ったのが、本作の主人公のひとりであり、原作漫画の中でも牽引役である人物「マーヴ」と、彼のエピソード"The Hard Goodbye" だ。
 あまりに好きすぎて、セリフは覚えて毎日の生活の中で使う。

 例:「お前の(所持している)○○は、ずいぶん上等なもんだな」
(相手の持ち物を褒めるときに)

「俺は〇〇が好きだ。どんなに~~しても、心は痛まねえ」
(心が痛まないから好きなときに)

「最近の〇〇は、どれもこれも電気カミソリに見える」
(どれもこれも電気カミソリに見えるときに) 

「俺は道具をチェックする。○○、××、△△[……]、そして俺の両手」
(持ち物をチェックするときに。必ず自分の両手をカウントに入れよう)


 そしてこのエピソードで自分が感じたものを誰かと共有したかったけど、なにしろもう流行を過ぎた映画だし、ネット上でもあんまり長い感想は見当たらないしで、もう自分で感想を書き散らすことにした。 
あらすじなどは書いていないので、見ていない人間にはストーリーを理解しがたいが、
ネタバレは大盛という残念な感想文だけど。

 以下、特に断りが無ければ日本語吹き替え版のセリフを引用している。

EP1 "The Hard Goodbye"


 原作漫画の第一話であるところのこの話。
 まさに殺人ゴリラと呼ぶ他ないような筋骨隆々の主人公:マーヴと、謎の美女:ゴールディの情事から、このエピソードは幕を開ける。

 初対面のゴールディから「あなたが欲しいの」と言われ、「なぜこんなにツイてるのか考える」なんて野暮なことはせず彼女と寝たマーヴ。しかし数時間後に目を覚ますと彼女は殺されていた。
 彼女を殺した奴を必ず殺すとゴールディの死体に誓い、何者かの差し金で踏み込んできた完全武装の警官隊を蹴散らし逃亡。
 マーヴは、彼の保護観察官:ルシールや、ゴールディの双子の姉:ウェンディ(と彼女の仲間たち)の助けも得ながら、殺人犯を殺し誓いを果たし、またその殺人犯の黒幕さえも殺してのけた。


 しかし不思議なのは、なぜマーヴがゴールディのためにこの大立ち回りを演じたのかだ。
 この復讐の旅の道中、マーヴはルシールから、ゴールディが娼婦であったことを聞かされ、またゴールディは決してマーヴに惚れたのではなく、あくまでロアーク枢機卿とケヴィンから逃れ、守ってもらうために、「一番デカくて強そうな男」に近づいたに過ぎないことに気付いた。

 娼婦であるゴールディが男と寝たからといって、それは特別なことではない。娼婦ではない女性ならば、“身体を許す”ということに、男はもっと重みを感じるだろうが。
 (これは筆者がそうだという意味ではなく、おそらくアメリカ社会、そして日本社会一般で、女性に求められているジェンダーロール〔性的役割規範〕の話だ。)
 マーヴがルシールからそれを聞いたときの返答も、「娼婦だとは知らなかった。だからって何も変わりゃしねえが。……だが、知らなかった」と、やや動揺を感じさせる発言だ。
 
 そして、ゴールディがマーヴと寝たことは、彼女自身の命を守ってもらうためだった以上、ゴールディは「俺(=マーヴ)のような男に人生最高の夜を与えてくれた」(カッコ内筆者)としても、「慈悲の天使」などではない。

 それを知っていてもなお、マーヴはゴールディのために復讐の旅を続け、それを為し、遂にはそれがために濡れ衣を着せられ、電気椅子で処刑された。


 ゴールディ殺しとそれに付随する陰謀の片棒を担いでいた神父が
「まず考えろ。つまらない娼婦のために命を落とす価値があるかどうか」
と問うても、マーヴは平然と
「死ぬ価値はある 人を殺す価値も 地獄に行く価値も」
と言ってのける。

 ゴールディ殺しの直接の犯人であるケヴィンを始末した後も、彼は次の独白をして死地に向かって歩み始める。
「ゴールディ、お前の優しさへのお返しをしなくちゃならねえ。ロアークを追えば、勝つにせよ負けるにせよ俺は死ぬが、かまうもんか。お前のかたきが取れるなら、俺は笑って死んでやる」


 ゴールディに利用されかけたに過ぎないマーヴの奮闘を見ていても、しかし我々はこの物語を“愛”の物語として受容する。なぜだろうか?ゴールディは見方によっては厄介事をもたらしただけの悪女に過ぎない。彼女がマーヴに近づいたために、多数の警官や殺し屋、神父はともかく、マーヴの知り合いのルシールまで殺された。それでもマーヴとゴールディの物語が“愛”の物語であるのはなぜか。

(管見の限りでは、マーヴがゴールディの復讐をすることを「愛のため」と自明視する論考が多い。しかしこの考え方では、物語の序盤で明らかになる、「ゴールディは娼婦だっただけでなく、打算でマーヴに近づいた(惚れたわけでもなければ、愛があったかも分からない)」という点との整合性が十分ではないと筆者は考える。
ここを軽視しては、マーヴは愛も打算も区別しないで、ただ「いい思い」をできるセックス相手を取り上げられたことへの怒りで動く人間であるかのようになってしまいかねない。)


「生きてる意味がねえまま」日々を送るという「地獄」

その理由の一つには、ゴールディがマーヴを「地獄」から抜け出させたことが挙げられるだろう。マーヴはルシールに、
「地獄ってのは、生きてる意味がねえまま毎朝目覚めることだ。俺は地獄にいたが、俺に優しくしてくれた女が殺されたおかげでその地獄から抜け出せた。なにをすべきか分かってる」
と語っている。
 劇中でマーヴが生き生きしているのは、地獄から抜け出せたからだ。そしてロアーク枢機卿を殺した後は、また地獄に逆戻り。電気椅子に座るより前から、彼は既に「地獄」にいたのだ。
 「生きてる意味がねえ」日々を病院のベッドの上で、取調室の中で、刑務所の独房で、過ごしているのは、彼にとっては慣れ親しんだ「地獄」でしかなかった。
 マーヴはもともと「地獄」でしかない彼の一生のその一部を、ゴールディのおかげで極彩色の“日常”(あるいは“天国”?)で彩り、そして死ぬことができた。

 我々がこの物語の後味の悪さの中にも、一抹の救いを感じるのは、この辺りにも理由があるだろう。


 “愛”をくれた「慈悲の天使」

しかし、上述の理由を含めて、もっと大きな意味で、ゴールディとマーヴの関係は“愛”に他ならないと筆者は考える。

 愛についてまことしやかに語られる言葉に、こういうものがある。
 「恋は求め合うもの、愛は与え合うもの」

 出典も明らかではないこの言葉だが、ひとまずここではこの言葉を軸に"The Hard Goodbye"を読み解いてみよう。(実はここからが本稿の本題だ)

  ゴールディはマーヴに「人生最高の夜」を“与えた”。これが例えマーヴの庇護を“求めて”のことであっても、少なくともマーヴが「人生最高の夜」を受け取ったことに違いはない。
 ゴールディはマーヴの庇護を求めていたが、それは果たされなかった。警官隊を突破し、ルシールから薬をもらい、そしてマーヴは気付く。
 「ゴールディ、お前は怯えてたんだな。誰かに命を狙われてると知っていた。だからお前は、わざと危ねえ酒場にやってきて、一番デカくて強そうな男を探し、俺に目をつけた」
ここでマーヴは思ったのではないか。“だったら俺は、ゴールディに庇護を与えなければならなかった”。

 この時点で、ゴールディとマーヴは「与え合え」てはいない。そう、物語の冒頭では、ゴールディとマーヴの“愛”は成就していないのだ。結論を先取りすれば、この物語はゴールディとマーヴの“愛”を成就させるまでの長い旅の物語ということになる。

 マーヴは自らの「与えそこなった」ものを遡及的に埋め合わせるために、ゴールディ殺しの犯人に復讐することで、ゴールディとの間に芽生えかけている“愛”を完成させることを目指したのだ。

 そしてケヴィンを殺し、ロアーク枢機卿をも殺した時点で、彼は独白する。「見事にやったぜゴールディ。約束した通り、いやそれ以上見事に」。

 ここでようやく、マーヴはゴールディが与えてくれた「人生最高の夜」の対価として与えそこねた「庇護」の遡及的な代替として「かたきを取る=復讐」を果たし、「与え合う」関係をようやく完成させた。


 もちろん、この時すでにゴールディは死んでいるのだから、マーヴはこの関係が“愛”として完成したかどうか、言い換えればゴールディがまた何かを自分に与えてくれるかどうかは、確認しようがないことになる。
 だから、マーヴにとって“ロアーク殺害後から死刑執行の前の晩”までの日々は、せっかく“愛”を得たはずなのに、まったく楽しそうではない、「地獄」でしかない。

 再び「地獄」の中にいるマーヴを抜け出させるのは、またしても“ゴールディ”だ。
 ウェンディがマーヴのもとに面会に来る。マーヴは初め彼女をゴールディだと勘違いするが、すぐにウェンディであると気づく。(檻の扉のそばではカラーで描かれていた彼女が、マーヴに歩み寄るとモノクロに溶け込んでしまうことからも、観客はマーヴの心を読み取れる)

 勘違いを詫びるマーヴに、ウェンディは「ゴールディって呼んでいいよ」とだけ返す。

 お礼の言葉でも、謝罪の言葉でも、労いの言葉でもない。
 しかしそれで十分なのだ。

 ウェンディがマーヴとセックスをしたかはわからない。
 だがどちらでもいい。ここで大切なのは、ウェンディが「ゴールディ」と名乗り、「ゴールディ」がもう一度身体を許したことだ。

 ゴールディはマーヴに「人生最高の夜」を与え、
 マーヴはゴールディに「庇護」を与えられなかった代わりに「復讐」を与え、
 そしてウェンディ(ゴールディ)はマーヴにもう一度「ゴールディとの一夜」を与えた。

 このとき、ようやく、マーヴの“愛”の成就を求める長い長い旅は終わったのだ。

 「今夜より前にお前に出会っていたら…
 お前は友達以上の存在だった」(日本語字幕より)
 
 マーヴとウェンディ(ゴールディ)の一夜は、マーヴのこの独白を裏付けるようなものを観客に感じさせる。
 そもそも劇中、マーヴは意外と優しいことが分かる。女は殴らないし、女を殴る男も懲らしめる。  (ケヴィンの処刑前にウェンディを殴るが、これは気絶させて惨劇を見せないためだから、大目に見るべきだろう。そしてナンシーの友人の男子学生、彼も彼女の態度からして、おそらく殺されてはいないだろう)
 マーヴの行きつけの店「ケイディ」のウェイトレス(EP2のシェリー)も、ドワイトも、ナンシーも、ベイシン・シティにはマーヴに好意的な人間が意外といる。
 
 観客は知っている。マーヴが異常な体躯、恐怖を感じさせる顔つき、精神の不調、暴力的で拷問を好む性格、それらを持っていても、一方で彼は優しく、やはり「生まれる時代を間違えた不運な男」であることを。


 時代が、タイミングが合えば、マーヴは「ナンシーみたいな女は抱き放題だった」だろうし、

 もっと大切なことには、ゴールディともっと静かな愛を育むことだってできたはずなのだ。


 この不運な男に、ついに“愛”を成就させた運命の女(ファム・ファタール)、ゴールディ。

 彼女が与えたのは、「人生最高の夜」だけではないことがもう分かるだろう。


 マーヴは彼女から、これまでの人生で一度も、

誰からもついぞ与えられることのなかった、

「“愛”のきっかけ」を与えてもらったのだ。

 (「こんな顔した男が近づいてきたら、女は殺される前に逃げる」)

 (「逃げなかったのは……ゴールディだけ」)


 だからこそゴールディは、やはりマーヴの地獄の人生にあらわれた「慈悲の天使」に他ならない。


「この街では愛さえも闘いだ」

('15.07.21一部追記) 

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