2017年12月24日日曜日

映画『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』感想など(準備稿)

 イタリア生まれのスーパーヒーロー映画、ガブリエーレ・マイネッティ監督の『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』(原題:Lo chiamavano Jeeg Robot 皆はこう呼んだ「鋼鉄ジーグ」)。
 私が2017年に観た映画ベスト10を上げるなら、間違いなく入ってくる傑作です。というか誰も上げないだろうから、私は贔屓を込めて、これをベスト1だと言っていきます。
 ミニシアター系での上映だったので、周りで観た人はほとんどいなかったですが、唯一ロボガ界隈では話題になりました。鋼鉄ジーグですからね。
 今日はその感想とか、考察とか、気づきとか、まあその辺のことを気の向くままに書こうかと思います。 ネタバレありです。

 



1.疎外された個人と社会の関わり方についての物語
 この映画の主要登場人物は、主人公・エンツォ、ヒロイン・アレッシア、ヴィラン・ジンガロの三人です。彼らはみんな、「ふつうの社会」からほとんど疎外されているんですね。

 エンツォは団地の同じ棟に住む“オヤジ”ことセルジョの他には友達も知り合いも誰もいないで、盗みを働いてないときは日がなテレビでアダルトビデオを観ながらヨーグルトを食べている。序盤でセルジョのカーラジオから流れてくる爆弾テロのニュースにまで消してくれと言うくらい、世の中から排除され、自身も世の中に対して心を閉ざしている。なんなら「闇の日」が来たって「せいせいする」とのたまう始末。*1-1

 アレッシアは家にこもりきり。友達がいないのはもちろん、精神科医からも親からも性的虐待を受けている始末。ただ、彼女の『鋼鉄ジーグ』に向けた想像力・空想力は、単なる現実社会からの逃避ではなく、現実に対して向き合うときの貴重な力でもあるという点が良いですね。中盤でエンツォとショッピングモールでデートをする時、彼女はその想像力を使って、街の人々と仮初めの交流を果たしている。この意味でのみ、彼女にとって街の人みんなが友達で、だからこそ「闇の日」を恐れているのです。(彼女が純粋な空想のジーグ世界に生きているならば、現実に起こる出来事を憂慮する必要はないのですから)

 ジンガロは一応地元チンピラ集団のボスを気取っていますが、実際のとこは幼馴染のリッカと微妙な力関係にあります。ジンガロはエンツォ、アレッシアに比べたら幾分か社会に参加したいという気持ちを強く持っていますが、それはあくまで目立ちたい、人をひれ伏させたい、支配したいという欲求であって、社会への水平な参加、例えば参画(男女共同参画というときのような意味で)とはまったく異なります。彼の社会観は非常に垂直的・権威的で、だからこそ強いマフィアである「カモッラ」と取引しようとしたり、逆に一般社会を軽蔑していたりする。彼の潔癖さはこの軽蔑とセットでしょう。(余談ですが、マルチェローニとの関係性もまた、彼の垂直的な社会観の表れかもしれません。女性とはうまく関係を作れないけれど、“十分な男ではない”マルチェローニとであれば、微妙に見下しつつも関係を持てる、とか……?)

 この映画は、この三者が社会から疎外されていることを描くために、とても誠実な作りをしています。その徹底ぶりの極地は買い物シーンの欠如です。
 エンツォがATM強盗をしてから、冷蔵庫いっぱいのヨーグルトを買うまでのシーンは描かれません。ここはせっかくスーパーパワーを用いた調子のいいシーンなのですから、コメディに寄せたければ、「大量のヨーグルトをレジに置くエンツォ、それに驚く店員」みたいなシーンを作ることもできたはずです。みなさんの生活でも、コンビニやスーパーの店員をなんとなく覚えたり、あるいは飲食店の人と他愛のない会話をする機会はあることでしょう。彼にはそういう繋がりさえないのです。
 もちろんジンガロも、iPhoneは自分では買いに行かず、溜まり場に引きこもったまま、部下のスペルマを列に並ばせています。“本当はもっと人から尊敬されてしかるべき自分”が、凡俗たちと同列に並び、しかも待たされるなんて、彼には耐えられないのでしょう。
 アレッシアは買い物をする流れがないのでこの文脈で話すのは難しいのですが、「お姫様のドレス」の会計をするところが描かれないことや、街道を一人でさまよっていた様子が描かれないことが概ね等価になっていますかね。アレッシアをエンツォの元に連れてきた警官たちも、引き渡しの際にはアレッシアのことをほとんど見ていません。

 もちろん、観覧車のシーンもそうです。本来は賑わっているはずの遊園地の荒廃っぷりたるや。あれはもちろんトル・ベッラ・モナカの荒廃ぶりの描写でもあり、そして画的な美しさのためでもありますが、同時に、彼らが他者と触れ合ってしまわないために必要とされた無人っぷりでしょう。*1-2

 エンツォは社会に背を向けている。
 アレッシアは社会から虐げられながらも空想越しに社会と関わる。
 ジンガロは社会をひれ伏させたい。

 大胆な言い方をすれば、この『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』は、「社会と関わることについて描いた映画である」と言えます。
 エンツォが「人助けをする」という形で社会に関わるようになる道のりは、アレッシアが社会との関わりを諦めなかったことによって動機づけられています。
 対するジンガロは社会を震撼させ、ひれ伏させようとしますが、結局滅び去るのです。社会に関わる姿勢についての、反面教師として。そしてこの敗北は必ずしも限界ギリギリのドラマティックさではありません。最終決戦で、エンツォはジンガロの力に不意を突かれはしますが、便器を投げつけて以降は、さほどの不利を被ってはいません。観客席で不意打ちされても、すぐに逆転し起爆装置の携帯電話を奪って破壊する。ジンガロは既に何人もを殺害し、人に暴力を振るうことにはある程度慣れているはずなのに。
 結局のところジンガロは、対等な相手や強い相手に立ち向かう心は持っていなかったということでしょう。iPhoneでの撲殺は背後から、リッカ殺しも犬任せ、最初にヌンツィアの部下を殺すのもマルチェローニが発端で、ようやくヌンツィアとケリを付けるのは超人化以後です。*1-3

 だからといって、単純に「社会には水平に関わろうね、参画しようね」という話にもなっていないのが、この作品が崇高なヒーロー映画たる所以です。
 エンツォは一応「スーパークリミナル」として手配されているとは言え、終盤の少女救出シーンでは母親の他には誰からも賞賛の声などかけられません。警官も戸惑うばかりです(お前の不注意が一因だろ!)。そして爆弾をスタジアムから遠ざけるために救急車を走らせても、警官隊に阻止される。
 徒歩で橋に向かって走る間も、群衆は彼にほとんど目もくれません。もちろん、雑踏のど真ん中でどつきあうジンガロにもです。

 この彼らの「見向きもされなさ」の徹底ぶりは、例えば2015年の『ファンタスティック・フォー』のビクター(Dr.ドゥーム)の描写にも通じます。(思えば『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』は『クロニクル』と通じ合うところがありますね)

 そんな見向きもされない彼らはアレッシアとジンガロが死に、ようやく社会に注目されるようになった「エンツォ」もまた「死」を迎えています。
 彼は素顔のエンツォとして社会に関わるのではなく「ヒロシ・シバ」を名乗り(このシーンは直球で泣ける)、薄皮一枚の空想というマスク越しに――これはもはや、フードとネックウォーマーではありえません――「鋼鉄ジーグ」としてローマの夜に飛び降りてゆく。
 「エンツォ」ではなく「ヒロシ」として、「スーパークリミナル」ではなく「鋼鉄ジーグ」として。彼は社会に参画するのではなく、あくまで一方的に関わることを決めるのです。
 彼が再び社会に向き合うには、アレッシアのような空想・想像力という「マスク」が必要だったのです。この「空想を通して社会と向き合う」という姿勢をバカにしてはいけません。
 なぜならそもそも、自分の属する共同体がどこなのかという帰属意識、そしてその共同体はどこまで続くのかという境界意識などが、想像力の産物だからです。
 例えばB.アンダーソンが指摘したように、近代以後(概ねフランス革命以後)の国家観というものは、会ったこともない人々を同胞であると想像することによって成り立つ「想像の共同体」なわけです。*1-4
 だから、実体ある友人知人をすべて失ったエンツォには、もはや実体ある共同体は存在せず、想像を通して立ち現れてくる共同体しか残されていないのです。ただしここで言う共同体は、「想像の共同体」=国家ではなく、ローマのトル・ベッラ・モナカという地元から始まる、ある程度地縁的な小さな社会ではあります。この「国家の崩壊→社会からの疎外→新たな共同体の構築」というテーマは、現代の多くのアメコミ映画で表現されているテーマですが、ここで書くと冗長なので、いずれ『ファンタスティック・フォー』賛歌を交えつつ書きます。

 ともあれ、ここで「エンツォ」が「社会復帰」など果たしていたら、あんまり意味は無いのです。それどころか、対するジンガロはハッピーサンデーに出演した成功体験が忘れられず、その成功体験を後生大事に引きずりながら、もう一度返り咲こうと――つまり「社会復帰」をしようと――していたのですから。
 こういう徹底ぶりも含めて、とにかくこの監督は誠実だなあと感じました。


*1-1:トル・ベッラ・モナカという荒廃した郊外地区に住む孤独な男というのは、例えばフランスの『アルティメット』シリーズのバンリュー13とレイト(ダヴィッド・ベル)を思わせます。『アルティメット2』についてはまだ自分の中で総括ができていないのですが……。あるいは漫画『最強伝説黒沢』。

*1-2:しかしとにかく、あのシーンは画が美しい。この映画の画作りはほとんど奇跡といいたくなるほどよくできているのですが、空を飛ぶ飛行機を写し、飛行機を追うカメラがごく自然に観覧車を写す。この映画は薄暗い画面がずっと続き、素直に空を写すことはほとんどありません。その中で、空に飛んでゆく風船を写すシーンは非常に象徴的に使われています。「赤い風船がエンツォの気持ちを暗喩している。一つ目にショッピングモールで放たれた赤い風船は、鋼鉄の力を私利私欲の為だけに使うことしか考えられなかったエンツォの心根を表しており、それが故にショッピングモールのガラスの天井にぶつかって外に放たれることはないのであるが、二つ目の赤い風船は、ヒーローとして影ながら人を助けることを決意したエンツォの気持ちと同様、ローマの郊外の青空へ放たれていくのだ。」 というこちらのブログの言及は完璧ですね。同様の文法で読めば、遊園地での飛行機と空のカットも、空がエンツォの正義感みたいなもののアナロジーかもしれません。

*1-3:ジーグブリーカーでヌンツィアを殺すのは、ジーグへのリスペクトと、鋼鉄の力を持つエンツォと同質の力であることを示す、天才的な描写ですね。

*1-4:我々は学校や職場の行き帰りの間にすれ違う人々よりさらに関係性の薄い、会ったこともないような人々をも含めて、「日本」という国が“あり”、「日本人」という集団が“ある”と信じていますね。でもこの意識は想像の産物です。アンダーソンは、その想像の誕生期を支えたものとして、資本主義経済と出版産業を挙げました。そして近代国民国家が出来上がり、国家の隅々まで行き渡る制度が確立され、想像の共同体が限りなく“現実”に近づいている。しかし、例えば「スペイン」という国家とアイデンティティが、「カタルーニャ」というアイデンティティによって揺らがされていることや、あるいはユーゴスラヴィアの崩壊が示しているように、大きな共同体はやはり想像力によって支えられ、想像力によって崩壊するのです。



2.映画作りのうまさ
 この映画は画作り・演出が本当にうまいですね。
 エンツォ、ジンガロが川から這い上がってくるときは、黒光りする手と薄っぺらいメタルシートが派手な音を立てることで、普通の音なのになにかただならぬ事が起きる期待感を感じさせます。
 エンツォがATM強盗をした翌朝に自分の身体を見渡すシーンも、さっきまではただの180cm/100kgのおじさんだったエンツォが、意外と筋肉のあるいぶし銀な男に見えてきますし、照明の効果もあって、その拳がなにかただならぬ力を秘めた非人間的なものに見えます。

 アレッシアの写し方も最高です。演技指導も行き届いているのでしょう。
 彼女が空想の世界に生きているときは、その表情もイキイキと輝いている。イキイキと、といっても、単なる笑顔ではなく、やけに子どもっぽく歯をむき出しにして笑う、服を着崩す、脚を抱えるように座るなど、心を病んでいることが演技でよく出ているのがすごい。


 そんな身体は大人、心は子どものアレッシアが、突然エンツォのセックスによって空想と現実の垣根をぶち壊されて、エンツォ≠ヒロシという現実を知り、沈痛な表情を浮べる。この落差が、アレッシアの顔にすべて出ていて、一気に老け込んだようにすら見えます。

  あとは何と言っても観覧車のシーンでしょう。これは載せようかと思ってスクショも撮ったのですが、やっぱり映像の中で観てほしいので、皆さん今すぐTSUTAYAに行ってください。


3.個人史との折り合いの付け方
 エンツォとジンガロ。死と復活。
 自分の傷の取り扱い方。アイカツ!に寄せて。


4.ジーグである必要
 ジーグである必要がないと言うやつは論理的思考のできないカス。(暴言)


5.ヒーロー映画の系譜
・『ゼブラーマン』、『拳銃と目玉焼』
 あまり「スーパー」ではない「ヒーロー」の物語。

・『スパイダーマン』、『キック・アス』、『ウォッチメン』
 降って湧いた力。自己顕示欲。精神的逸脱。

・『クロニクル』
 低予算と誠実な作家性。

・『ファンタスティック・フォー』、『レゴバットマン』、『X-MEN:アポカリプス』
 社会との関わり、共同体の再構築。

・ヒーローの定義。再び『スパイダーマン』
 劇中のニュースレポーター「ヒーローとは何か?/優れた能力と秀でた勇気の持ち主である/悪の代わりに善を選び/人を救い 自らは犠牲に/何より失うだけで得るものなき時に行動する/彼は真のスーパーヒーロなのだろうか?/常識人は国の荒廃と英雄の不在を嘆く/だが 我々の生活を見守る者の存在は――/未来への希望を輝かす/ただ 残念ながらその彼は……もういない/ローマ トル・ベッラ・モナカから中継でした」

 一方、『スパイダーマン2』でのサム・ライミ監督のコメント「反対意見もあったが、王道をいってよかったよ。/悪者を殺さないのも正解だ。暴力は解決にはならない。/君は相手の善なる部分を喚起するからヒーローなんだ。/“正しいことをする勇気”君の演技にはそう思わせる力がある。」(君=トビー・マグワイア=スパイダーマン)

 では、ヒーローとはエンツォだけであろうか? 
 
6.先行研究、参考文献
 ここも準備中です。


・東京倶樂部★CLUB TOKYO 「映画『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』
 エンツォが食べているのは本当にヨーグルトなのか?というところへの考察。mango氏はこれはダノンのヨーグルトではなく、「ヨーロッパでは広く普及しているお手軽デザートで、イタリアでは、“Budino alla Vaniglia(ヴァニラ・プディング)”、“Budino alla Crema(クリーム・プディング)”、“Crema alla Vaniglia(ヴァニラ・クリーム)”といった名称で、多くの乳製品メーカーから出ている物」ではないかと推測している。
 実際、本編の49分09秒あたりで、パッケージ上に「Cre…」の文字が確認できる。おそらくこの指摘は当たっているだろう。


・webDICE「永井豪インスパイア!イタリア発スーパーヒーロー映画『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』
 パンフレットに収録されている監督へのインタビューはここで全文読める。





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